今月のことば「合掌ができない子どもたち」

宗教新聞(中外日報)に「合掌ができない子どもたち」という記事が出ていた。

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私は合掌という行為は自然に誰でもできるようになると思っていましたが、二十年ほど前に「合掌ができない(知らない)子どもたちに出会いました。
地蔵盆のお勤めのとき、合掌して読経を始めかけてひょっと後ろを向くと、合掌をしていない子どもが何人かいるのです。

「合掌しないといけないやろ、合掌を知らんのか」
「知らん」
「ご飯を食べるときにするやろ」
「していない」。
エッー、そのとき「合掌ができない子ども」がいることを知ったのですが、子どもができないのならその親も、と思い愕然としました。

なぜ愕然としたかといえば、「合掌」は宗教行為の基本動作です。
それができないということは僧侶、つまり私自身の責任であると思ったからです。
また「合掌」は宗教行為であるとともに「自己を見つめる」「他人への思いを至らす」そして「感謝」の表現であると思います。
それができないということは「自己中心」「他人のことは知らない」「感謝の心に薄い」という、まさに「現代社会の姿」であります。

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ご法事の最後にご勧章をあげ、「最後に手を合わせてお念仏申しましよう」と言っているが、どの程度の人が合掌しているのか分からない。
お念仏の声はほとんど聞こえない。
昔はお説教の時、受け念仏といって南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏が出ていたというが、これも我々の責任だろう。

保育所の子どもたちは、毎週本堂へお参りしている。
お扉を開け、仏讃歌を歌い、お念珠をかけてお参りする。
所長の短い話を聞いて終わり。
十~十五分。昼の給食やおやつも手を合わすことから始める。
この習慣を忘れず続けてもらいたいと願っている。

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