今月のことば「生き物たちと仏教の話:命を育む はたらき」

嗣法さま(華園沙弥香様)が、宗報(宗派の寺院・僧侶向けの出版物)に掲載されているご法話を転載致します。

私は仏教系の大学ではなく獣医学部を卒業し、動物実験をする研究室に所属していました。
動物実験と聞いて残酷だと思う方もいらっしゃると思いますが、私たちが享受しているすべての人間医療は動物実験なしでは語ることができません。

学生の頃から生き物たちの「いのち」を身近に感じてきたからこそ気づくことのできる「いのち」の世界があると思っています。
ここではそのような経験をもとに、私たち人間も含めた生き物と仏教にまつわる物語を綴っていけたらと思っています。

さて、臓器のお話から始めていきたいと思います。

同じ生き物でも個体によって臓器の仕組みが違うことはご存じの方も多いでしょう。
例を挙げてみると、一部を除く魚類、昆虫を含む節足動物や、貝、タコ、イカ、クラゲなどの無脊椎動物には肺がありません。
ではどうやって呼吸をしているのかというと、魚類は基本的に鰓呼吸、また昆虫を含む節足動物はさまざまな環境の中で生活しているため、鰓、皮膚、気門など多様で独自な呼吸方法を獲得しています。
そして無脊椎動物は肺呼吸、呼吸、皮膚呼吸など、個体で異なった方法で酸素を体内に取り込んでいます。
呼吸法だけとってもその方法によって、それにまつわる臓器は多種多様です。

臓器だけでなく外見も人間とは全く異なった生き物たちですが、共通することが一つあります。
それは生き物ならば心臓や心臓と同じようなはたらきをしている器官があるということです。
〈生きている〉ことの元には必ず心臓のはたらきがあります。
けれどもこの心臓はそれ自体で動くことができません。
心臓以外の臓器やさまざまなはたらきが加わり助けられて動くことができます。
そして、その心臓の鼓動によって他の臓器も連動し連携して生き物は活動することができるのです。

このことは実際に解剖をしてみるとよくわかります。
すべての臓器がつながり、助け合いながら、生き物の「生きる」という活動が生まれてくるのです。

しかしそれは解剖でもしない限り実際に見ることができません。
私たちの体内で活動している臓器は、私たちの意識など関係なく「生きる」というただ一つの目的のために、日々助け合い支え合いながらはたらいてくれています。

しかし、このような臓器の営みによって「いのち」が育まれてしることを私たちは日々の生活の中で忘れてしまいがちです。
私の「いのち」を育んでいるのは臓器だけではありません。

白然の恵みを受け、無数の生き物のいのちをいただき、多くの人に支えられ育まれてある「いのち」を私たちは生きています。
「育む」という意味でそれらを光として受け止めてみると無量光と呼ぶことができますし、育まれてある「いのち」は量ることができませんから無量寿と言い表すこともできます。

無量光と無量寿を浄土真宗では阿弥陀と呼んでいきます。
また、私たちに向かって「いのち」を育む阿弥陀の世界に目覚めよと願いはたらきかけてくださっている仏を阿弥陀仏と呼んでいます。
私たちは、この阿弥陀仏のはたらきを通して育まれてある「いのち」に気づかされていくのです。
南無阿弥陀仏の歩みとは、育まれてある「いのち」への気づきに他なりません。
私たちはいま一度、南無阿弥陀仏の歩みを通して「いのち」を育むはたらきを星つめなおしてみるべきではないでしょうか。

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