今月のことば「親鸞親鸞聖人(しんらんしょうにん)」

我々の真宗興正派では来年、令和五年(二〇二三)に「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年、立教開宗八百年慶讃法要」が勤まります。

親鸞聖人は、一一七三年に京都の南、日野の里でご誕生されました。
九歳で得度され、二〇年にもおよぶ比叡山での修行の後、二十九歳のとき法然上人と出遇われ、念仏の道を歩まれました。
その後、念仏停止(ねんぶつちょうじ)の法難で越後へ流罪になられました。
その後関東に移られ、正しく本願念仏の教えを人々に伝えるため『顕浄土真実教行証文類』を書き残して下さいました。
この御本典の成立は元仁元1年、一二二四年とされており、倒世派ではこの年を立教開宗の年と定めています。

十年ほど前、親鸞聖人七百五十回忌法要が勤まりましたが、その時真宗教団連合から出版された「親鸞」という本が手元にあります。
その本の「はじめに」は、親鸞は、仏教の目的である(目覚めた者)と成る仏道を、仏に成り1たいと願うすべての人びとの上に実現される念仏道として明らかにしました。それが「真宗」です。仏に成る(成仏)とはどういうことでしょうか。
それは釈尊の「覚り」によって見定められた「いのち」の真実に目覚めて生きる者になることです。

いのちの真実に目覚めるとは。私の「いのち」は「生かされているいのち」であるという事実への目覚めです。
私の「いのち」は「生かされているいのち」であることに目覚めたときは、自分の思い通りに生きようとしている私の思い(自我)が打ち破られるのです。
様々な因縁によって「生かされている私」であることに気付かされるのです。
このように「いのち」の真実への目覚めを持ったとき、私たちの「いのち」は共に平等であり、「単独に存在しているいのち」ではなく、お互いに連
携して「生き合っているいのち」であると、私たちは同じ地平に立つことができます。そこにこそ真の平和が用意されているのです。

それでは、「目覚めた者」(仏)に成りたいと願っても、現に今自分の思い通りに生きたいという自我の束縛から離れられずにいる私たちは、「目覚めた者」仏に成ることができるのでしょうか。
そのような私たちのために仏と成る道筋を明らかにしたのが親鷲聖人の真宗です。
とあります。

次回からこの本「親鷺」を皆さんと読んでいこうと思っております。
最初は「親鷲聖人の生涯」です。お付き合いください。

西光寺では門信徒向けの行事案内、仏典物語等を掲載した寺報「慈光」を発行しております。
寄稿もお待ちしております。発送いたしますので、お申し出ください。